姉小路の館

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戦国時代
この頃、飛騨国の実権は守護代である多賀氏、あるいは三木氏に多く委ねられていた。
守護代多賀氏の台頭は、文明二年の京極持清の死によって起こった継嗣問題に如実にあらわれている。政経と多賀豊後守高忠に対して、政経の弟政光と多賀出雲守清直が組んだ争いである。主家の継嗣問題に一族を割った多賀氏の、京極家内の勢力はかなり大きなものだったと考えられる。
この頃、飛騨国内でのもう一つの勢力である国司家の姉小路氏でも内部抗争が起こっていた。姉小路尹綱のあとに分かれた小島氏・古河氏・小鷹利氏、3流の争いであった。この争いに乗じて京極勢は姉小路勢を一気に追い、文明五年には、姉小路勢力を一掃したという。 姉小路家の所領はのちに、将軍家によって回復されたというが、この事件を機に、守護京極氏方にあった三木氏が飛騨国内で次第に勢力をのばし、独自の支配を進めて、主家京極氏から独立した。
三木氏は良綱の代の永禄二年(一五五九)には、姉小路家を継承して国司を名乗るに至った。 この頃には、京極氏の本拠地である北近江で浅井氏、出雲・隠岐でも尼子氏が台頭し、京極氏は大永三年(一五二三)継嗣問題での内紛後、戦国大名に成長した浅井氏に庇護されるだけの存在となった。
姉小路氏を称した三木自綱は、飛騨国の戦国大名として自立した。しかし、自綱は弟の顕綱・嫡男信綱を謀反として殺し、内部から弱体していった。更に天正十三年(一五八五)には佐々成政と組み、豊臣秀吉に反抗、その命運は絶たれた。 この後飛騨国は、金森氏によって豊臣大名の領国として治められた。
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