姉小路の館

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飛騨の守護
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鎌倉・南北朝時代
1185年、源頼朝は守護・地頭設置の勅許を得たが、飛騨においては、守護の名は鎌倉時代を通じて資料には現れない。 ただ、守護使不入権を荒城郷の地頭職に与えたことが「吾妻鏡」にみえ、その存在をほのめかすのみである。
鎌倉幕府が滅亡後、飛騨国守護に岩松経家が補任され、建武年間には、姉小路家綱が飛騨国国司に補任された。 この国司補任は後醍醐天皇の建武新政の一環であり、のちに飛騨国の南朝勢力として、南部の守護家京極氏に対して、北部を姉小路氏が支配した。
室町期の飛騨国の特徴の一つは、国司家姉小路氏と守護家京極氏の並存にある。他国の国司が次第に有名無実化していったなか、伊勢国北畠氏と阿波国一宮氏、飛騨国姉小路氏は「三国司」といわれ、天正年間まで公家の国司として名実共に存続した。 一時、北朝方から三善信顕・藤原基定が飛騨国司に補任されたが、遙任であった。 やがて国司は姉小路氏に帰し、飛騨国は南朝御領二十ヶ国の一つといわれ、姉小路氏は現在の吉城郡古川町の小島城に拠った。
飛騨国守護は、岩松経家が建武二年(一三三五)に中先代の乱で戦死したあと一時不明であるが、延文四年(一三五九)京極導誉の守護職補任が、「佐々木文書」の義詮御教書案で確認される。こののちの飛騨国守護は、佐々木京極氏が代々世襲したと考えられる。
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