三木自綱
(1540〜1587)
三木良頼の子、従5位左衛門佐、侍従、従4位下太宰大弐、中納言・大和守・左衛門大夫、
光頼、頼綱とも称す。入道して休安という。

1558年、吉城郡高堂城の広瀬山城守宗域と連合して、天神山城の高山外記・三枝郷の山田紀伊守を攻め滅ぼす。 それ以降、鍋山安室・畑安高・大谷蔵人・岡本豊前守・小島時光らが支配下に入り、三木氏の勢力は益田郡・大野郡 に及んだ。
1569年、郡上八幡城主遠藤慶隆が家臣の鷲見氏・別府氏らと争ったとき、自綱は反遠藤派に味方して畑佐へ出陣して 気良・畑佐の土豪と共に遠藤氏と戦うが敗れる。のちに娘を遠藤慶隆に嫁がして和睦する。
1571年3月、二条城の落成による能楽のときに、飛騨国司姉小路自綱として参加。
当時の飛騨国は古河の広瀬氏、高原の江馬氏と南飛騨の三木氏の3大勢力に分かれていた。
1582年10月、江馬輝盛は飛騨を統一しようとして荒木郷へ侵入。そのため自綱は小鷹利の牛丸親正・小島の小島時光らの 援軍と共に八日町付近で江馬氏と激突した。この八日町合戦は飛騨の関ヶ原合戦とも呼ばれ、この戦いで江馬輝盛は討ち死にして江馬氏は滅んだ。 なお安国寺の僧らが江馬氏の家臣13人を逢坂のふもとに葬ったので、のちにこれを十三墓と呼ぶようになった。
1583年9月、広瀬宗域を攻め滅ぼす。(子宗直は逃げて大野郡の金森長近を頼った。)これにより内ヶ島氏が領地の白川地方を除いて飛騨国をほぼ手中にした。 自綱は高堂城を居城とし、秀綱を当主として松倉城に移らせた。
本能寺の変により織田信長が没した後、自綱は越中の佐々成政と連合して秀吉と対抗するようになる。
1585年8月、秀吉は金森長近に命じて三木氏を攻める。金森長近は石徹白から白川郷へ侵入し、9月には高堂城を攻めて自綱を降伏させた。
自綱は京都に追放処分となり、1587年に追われた地の京都で病死した。