真田幸村
幸村像

真田幸村公の陣中指揮姿の銅像。 その台座には信州上田の長谷寺(真田家の菩提寺) より取り出した石である(名付けて真田石)が置かれている。 大阪夏の陣で幸村が陣をはった真田山にある銅像です。
交通・JR環状線 玉造駅 下車西南300M
地下鉄 玉造駅 下車南50M(2番出口)

幸村誕生
真田幸村(信繁)は永禄10年(1567)に甲府で生まれた。父である真田昌幸は武藤喜兵衛昌幸といい、武田信玄に幼少の頃から出仕、武田家は天下の覇権を目指して京にむけて進撃を続けていた。しかし、天正元年(1573)に武田家当主・信玄が天下の夢を果たせないまま駒場で陣没し、信玄の四男・勝頼が家督を継ぐ事となる。 一方、真田家も当主・幸隆(幸村の祖父)が、天正2年(1574)に没し、幸隆の嫡男・信綱が家督を継いだ。武田軍が織田・徳川連合軍に敗北した天正3年(1575)の長篠の合戦で真田家当主・信綱と昌輝(幸隆の次男)が戦死したため、武藤姓であった昌幸が真田家に復帰し、家督を継ぐことになった。そのころ、幸村は8歳になっており、昌幸、信幸(昌幸の嫡男)と共に真田に帰郷することとなる。

武田家滅亡
長篠の合戦以後急速に勢力が弱まった武田家は、天正10年、当主・勝頼が一族ともども自害した。名門甲斐武田家はここに滅亡する。ちなみに勝頼をかくまった恵林寺の快川禅師を信長は怒り、急襲して焼き討ちをかけた。その時に快川禅師がいった有名な言葉がある。「安禅は必ずしも山水を須いず(安禅不必須山水)心頭を滅却すれは火も自ら涼し (滅却心頭火自涼)」。主家を失った後、小国の真田家は大国の北条家、織田家、に誼を通じ、主家探しに苦悩することになる。本能寺の変以後は、北条家、そして徳川家に属することとなり、小国ならではの厳しい戦国の世を生き抜いてゆく。

人質として
徳川家が豊臣家と対立が表面化した際、北条家と和睦をするために、家康は真田領である沼田の地を条件とした。小国である真田家には要求を退けるちからも無いはずなのに、昌幸は拒絶した。当然、自力で徳川家に対して争う戦力は持ってない。こともあろうに昌幸は、以前に裏切った上杉家を頼ったのである。昌幸は、幸村に叔父の矢沢頼綱の嫡子・頼幸をつけ、少ないながらも大切な軍兵をさいて上杉家に人質として出した。上杉家は、一度裏切った昌幸に対して、徳川家との争いには援助することを約束している。上杉謙信からの家風といえようか、謙信自身も何度も裏切った家臣を赦免しているが、その息子(養子)である景勝も同様に許している。その後、景勝は、幸村に対して1千貫文の領地を与えていることからみて、幸村は景勝に相当気に入られていたようだ。昌幸は豊臣家にも書状を送っているが、秀吉は早急の上洛を望み、天正14年6月に上杉景勝が上洛する折に、幸村は大坂城の秀吉に出仕した。そこで、秀吉に気に入られたのであろう、幸村は秀吉への人質となるのである。その際、景勝は幸村は真田家から上杉家への人質であると秀吉に申し出て取り止めようとしたのだが、天下人である秀吉の要求はのむ以外なかったのである。上杉景勝、豊臣秀吉の両人に可愛がられた幸村の、武将としての優秀さがこの件でわかるのではないだろうか。

次回 神川合戦
つづく